廣瀬淡窓とは

(写真)廣瀬淡窓

廣瀬淡窓(ひろせ・たんそう)
天明2年(1782年)~安政3年(1856年)

淡窓の誕生

 廣瀬家は延宝元年(1673年)、初代五左衛門が博多から日田の豆田町に移住したのに始まるといわれています。屋号を堺屋、のちに博多屋とした商家です。四代目平八(月化)のときに経営の規模を拡大しました。淡窓は天明2年(1782年)、五代目三郎右衛門(桃秋)の長男として生まれ、幼名を寅之助、のちに求馬・簡・建とも名のりました。

教育者の道へ

 淡窓は、6歳のとき父から習字や『孝経』の講義を受け、長福寺の法幢上人から『詩経』を学びました。16歳で念願の福岡亀井塾に入門し、亀井南冥・昭陽親子に師事します。しかし、大病を患い、わずか3年で帰郷しました。妹アリ(秋子)の看病により命をとりとめたものの、将来を案じる日々が続きました。淡窓を決心させたのは、「学問教授は天命だ。それで身が立たぬなら飢え死にするまでだ」という医師・倉重湊の厳しい言葉でした。
 その後、24歳で咸宜園の前身となる塾を開きます。塾は廣瀬家の支援も得て発展していきました。教育者という天職を得た淡窓は、病に苦しみながらも75年の人生を全うしました。
 
(肖像画は財団法人 廣瀬資料館所蔵)

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更新日:2017年03月22日