常設展示(日田の埋蔵文化財)

更新日:2024年04月17日

阿蘇4火砕流と小野川の埋没樹木

小野川の埋没樹木

 今から約9万年前に発生した阿蘇山の4回目の破壊的噴火は、九州のほぼ全域を覆い尽くした火砕流を引き起こし、全ての動植物を破壊した。

 この火砕流が小野川の谷に到達し、凄まじい破壊力によって樹木をなぎ倒した痕跡が川底から発見された。発掘された埋没樹木群は大きく変形して折れ、焼け焦げており、その樹種は13種類にも及んだ。これらは、阿蘇山の噴火の威力や発生時期、当時の自然環境などを推測するための貴重な成果となっており、現地は国の天然記念物に指定されている。

【画像:小野川の埋没樹木 スギ】

 

日田市の地形

大山産黒曜石の原石

 日田市は、東西24.88km、南北48.63km、面積666.03平方キローメートルの面積を有する。三隈川を中心とした日田盆地は、周囲を耶馬渓火砕流や阿蘇4火砕流によって形成された台地や丘陵に囲まれる。玖珠川沿いの天瀬は、川北は山地、川南は台地地形を成し、玖珠川に流れ込む支流には、優れた景観の滝や古くから知られる天ヶ瀬温泉がある。大山川流域には、津江山系を中心に深い谷地形が形成され、水系に沿って小谷が随所にみられる。

 このように多様な地形を持つ日田は、四方からの文化を受け入れては、独自の歴史を育んできた。それは、大山川流域に分布する黒曜石を石器へ道具化することに始まる。

【画像:大山産黒曜石の原石】

 

旧石器時代~狩猟民の生活~

剥片尖頭器(高瀬3遺跡)

 現在の日本列島に人類が登場する約3万5千年前から約1万5千年前までを旧石器時代と呼ぶ。氷河期であったこの時代は、現在より海面が低く、大陸と陸続きであっため、日本人の祖先は、狩猟の道具である石器などを作り、獲物を求めて日本へ移動してきたと考えられる。

 五馬台地では、日田市で最も古い約3万4千年前の焚火跡が確認された高瀬3遺跡や狩猟の拠点であった亀石山遺跡などの多くの遺跡があり、狩猟が盛んだった様子を窺うことができる。

【画像:剝片尖頭器(高瀬3遺跡)】
注釈:高瀬3遺跡の「3」、正しくはローマ数字

 

縄文時代~定住生活の始まりと精神文化の発展~

土偶(一部合成)(上井手遺跡)

 今から約1万5千年前に始まる縄文時代は、弓矢と土器の発明により、獲得する食料資源が増加し、食料の貯蔵や調理などに新たな方法が生み出された。五馬台地のほかに大肥川流域や大山川流域で見つかる遺跡からは、漁撈に使用した石錘なども見つかっており、食料を獲得しやすい川の近くにも生活域が広がったと考えられる。

 暮らしが安定すると人々は定住生活を営むようになり、大山川流域の中川原遺跡など、市内各地で竪穴住居が確認される。さらに、家族や集団の存在意識が芽生え、祖先崇拝などの精神文化を発展させ、土偶など祭祀に用いた道具が多数作られた。

【画像:土偶(一部合成)(上井手遺跡)】

弥生時代~日田盆地の弥生時代~

吹上遺跡出土遺物

 今から約2,500年前、大陸から渡来人により稲作が伝えられ、石を磨いた磨製石器や青銅器・鉄器といった中国・朝鮮半島の道具類など先進的な文物も伝来する。

 縄文文化と融合した大陸文化は、それまでの生活様式を一変させ、食料の確保や多様な手工業の発展を促す。さらに集団で農業を営むようになり集落は大型化し、大規模な濠を巡らせた集落(環濠集落)がつくられるようになる。

 こうした弥生文化の先進地は大陸に面している福岡県や佐賀県であった。これらの地域と地理的に近い日田でも先進地域の文化は伝来しており、徳瀬遺跡や吹上遺跡などでもいち早く集落がつくられ、北部九州の影響を受けた弥生土器や石器などが出土し交易が盛んな様子がわかる。また、大肥遺跡では木製農具や農業用堰等が発見されており、日田が北部九州と同時期に稲作が行われていたことがわかる。

【画像:大肥遺跡出土木製品】

 

古墳時代~大和王権の時代と暮らし~

須恵器脚付壺(法恩寺山4号墳)

 古墳時代には、近畿地方に大和王権が誕生し、各地の豪族を従えていく。日田盆地でも小迫辻原遺跡で政治的な様相が強い集落が出現し、80数基程度の古墳や横穴墓などの様々な墳墓が市内各地に築造される。なかでも、埴輪を巡らす薬師堂山古墳や市内最大の前方後円墳である朝日天神山古墳群、法恩寺・ガランドヤ・穴観音古墳などの装飾古墳などの首長墳は注目される。

 この時代は、様々な生産や製作技術、風習などが日本各地や朝鮮半島から伝わり、古代人の生活は大きく変化する。弥生土器は土師器へと変革し、5世紀頃には朝鮮半島から伝わった須恵器が登場する。さらに、竃は、炊飯技術、生活空間構成や建物構造に大幅な変革をもたらし、鉄の生産技術が大きく進歩する。日田盆地の多くの住居では5世紀にはいち早く竈が採用され、荻鶴遺跡では鍛冶工房跡や鉄原料の鉄鋌などが発見されることから、日田の先進性を窺い知ることが出来る。

【画像:須恵器脚付壺(法恩寺山4号墳)】

 

古代~律令国家と日田郡の成立

温石(懐炉)(尾部田遺跡)

 天皇中心の中央集権体制である律令国家が成立すると、各地に国、郡、里(郷)が設けられ、現在の日田市域とほぼ同じ「豊後国日田郡」が成立した。郡の下には5つの行政区域が設定され、「石井」「靭編」「在田」「日理」「夜關」の5つの郷に区分され、中央につながる道路や乗り継ぎのための馬と宿泊施設を備えた駅などが整備された。

 日田郡内の律令期の姿を想像させる遺跡も多数発見されており、大型柱列や建物群、墨書土器や硯、瓦などが出土した大波羅遺跡は、郡衙などの日田郡の役所と想定され、建物群や郡司職の名称である「大領」銘の墨書土器が出土した小迫辻原遺跡は、郡司の館と考えられている。そのほか、上野第1遺跡では道路や倉庫群とともに「豊馬豊馬」と線刻された石製品が出土し、「石井駅」の候補地とされる。

【画像:温石(懐炉)(尾部田遺跡)】

 

中世~中世社会と大蔵氏の栄華~

青磁合子(朝日宮ノ原遺跡)

 中世社会における日田の武士階級を代表するのは郡司職についた大蔵氏である。大蔵氏は名目上の支配者だったばかりでなく、実質的にも各地域に配置した同族及び他豪族を統合して、西豊後に一大勢力を築いていた。その初期には中央の貴族に従属し、権力の庇護を頼みながら勢力を確実なものにし、後期には豊後守護の大友氏に従いながらも独立を確保していた。このように日田は中央の影響を受けながらも日田独自の文化が育っていった。

 大蔵氏は慈眼山に城を構えて本拠地とし、慈眼山周辺にはその関連遺跡が広がりを見せている。出土した遺物には当時の人々が使った素焼きの土器のほか、博多を介した中国との貿易を示す輸入陶磁器や渡来銭、鞘や刀といった武士所縁の物や箸・杓文字などの生活具、碁石や独楽などの遊具など多彩な遺物が出土しており、大蔵氏の栄華と武家屋敷の生活の情景がみてとれる。

【画像:青磁合子(朝日宮ノ原遺跡)】

 

近世~永山城とその城下町~

「三丁目 中村」銘磁器皿

 日田が太閤蔵入地となると、日隈城とその城下町として隈町が作られ、日田の近世が幕を開ける。徳川へと政権が移ると月隈山に丸山城(後の永山城)、城下町として豆田町が誕生する。九州地方の各大名を監視する重要な拠点であった日田は一時、親藩・譜代の大名支配を経て、堀外に代官陣屋がおかれるなど、その大部分は幕府直轄地(天領)であった。

 豆田町は代官・郡代の庇護のもと、多くの商人たちが移住・土着し、商人町として発展する。そうした商人の中には、九州各藩の御用達となるもの(掛屋)が現れ、九州経済の中心的役割を担うようになる。こうして城下町として栄えた豆田町の庄屋中村家跡の発掘調査では陶磁器や硯などが多数出土しており、当時の繁栄した町の姿を想像させてくれる。

【画像:「三丁目 中村」銘磁器皿】

 

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