2021年人権コラム「心、豊かに」

更新日:2021年03月31日

『人権コラム 心、豊かに』は、「広報ひた」1日号に掲載(毎月)しています。

身のまわりから世界を変える 【1月1日号掲載】

皆さんは「SDGs」(エス・ディー・ジーズ)という言葉を聞いたことがあるでしょうか。ニュースなどで耳にしたことがあるという人もいるかもしれません。
SDGsとは、「Sustainable Development Goals」の略称です。「持続可能な開発目標」という意味の言葉で、2015年の国連サミットで採択され、国連加盟193か国が2016年から2030年までの15年間でよりよい世界を目指すための国際目標です。
SDGsには「1.貧困をなくそう」「2.飢餓をゼロに」「3.すべての人に健康と福祉を」「4.質の高い教育をみんなに」「5.ジェンダー平等を実現しよう」「6.安全な水とトイレを世界中に」「7.エネルギーをみんなに そしてクリーンに」「8.働きがいも経済成長も」「9.産業と技術革新の基盤をつくろう」「10.人や国の不平等をなくそう」「11.住み続けられるまちづくりを」「12.つくる責任 つかう責任」「13.気候変動に具体的な対策を」「14.海の豊かさを守ろう」「15.陸の豊かさも守ろう」「16.平和と公正をすべての人に」「17.パートナーシップで目標を達成しよう」からなる17の目標があり、“誰一人取り残さない”ことを目指しています。これは人権の問題についても例外ではありません。
例えば、5番目の「ジェンダー平等を実現しよう」や10番目の「人や国の不平等をなくそう」といった目標の達成には国や行政の支援だけでなく、社会全体で意識を変えていくことが必要です。この2つに限らず、他の目標の達成についても人権への配慮が必要な課題が多くあります。
2020年は新型コロナウイルス感染症の世界的流行によって、3つの「密」を避けるなど、人とつながることが難しい状況が続きました。新しい一年を迎えるにあたって、17個のうち1つでも自分の身のまわりから変えていけるものを探してみるのも良いかもしれません。

⼼の中の「⻤」 【2月1日号掲載】

今年の⽴春は2⽉3⽇で、その前⽇の2⽉2⽇が節分の⽇となります。皆さんは「節分」と聞いてどんなものを思い浮かべるでしょうか。近年では「恵⽅巻」なども有名になってきましたが、やはり「⻤は外、福は内」の掛け声で⾏う⾖まきを思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。
ところで、外に追い出す「⻤」とは何を指すのでしょうか。それは「目には⾒えない良くないもの」であり、病気や事故、災害といった「災い」を指す⼀⽅で、人の⼼の中にある「負の感情」についても「⻤」とされてきました。
また、仏教には「五蓋」という修⾏を邪魔する5つの煩悩を指す⾔葉があります。それぞれ5つの煩悩に対応した⾊があり、⻤の⾊にも同様の意味があるとされています。⻤と⾔われて⼀番イメージされるであろう⾚は「貪欲︓強い欲望」を表し、⻘は「瞋恚︓悪意や怒り、憎しみ等」の意味があり、その他にも⻩⾊(⽩)は「掉挙・悪作︓⼼の浮動・後悔」、緑は「惛沈・睡眠︓倦怠・眠気」を、⿊には「疑︓疑いの⼼」といった意味があるのです。
このように、古くから私たちは負の感情と向き合ってきました。しかし、⼼の⻤がいなくなったわけではありません。誰であっても⽇常のふとした瞬間に出会うことがあるのです。
例えば、新型コロナウイルス感染者が出たという情報を聞いたとき、「どこの誰だろう」と思ったことはないでしょうか。
誰が感染していてもおかしくない中で、いつ、誰が感染しているかを詮索したり、感染した人の⾏動を責めたりすることは、もし症状が出ても、⾔い出せない雰囲気が生まれてしまい、余計に感染が広まってしまう危険性があります。
⼼の中の⻤は簡単に「外」に出すことはできません。しかし、上⼿く折り合いをつけることで、⼼の内にも「福」を呼び込めるのではないでしょうか。

共に支えあう仲間 【3月1日号掲載】

 毎年3月21日は、「国際人種差別撤廃デー」です。これは1960年3月21日、南アフリカの
シャープビルで人種隔離政策(アパルトヘイト)に反対するデモ行進に対して警官隊が発砲
し、多数の人が死亡した事件(シャープビル虐殺事件)が起き、国連が人種差別に取り組む契機となったことから、人種差別撤廃のための記念日とされたものです。
日本で「人種差別」というとピンとこない人もいるかもしれませんが、2016(H28)年に施行された「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律(ヘイトスピーチ解消法)」の附則には「我が国においては、近年、本邦の域外にある国又は地域の出身であることを理由として、適法に居住するその出身者又はその子孫を、我が国の地域社会から排除することを煽動する不当な差別的言動が行われ、その出身者又はその子孫が多大な苦痛を強いられるとともに、当該地域社会に深刻な亀裂を生じさせている」と記載されており、日本でも国籍や人種による差別が起きていることが分かります。
また、上記の法律の第三条(基本理念)には「国民は、本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消の必要性に対する理解を深めるとともに、本邦外出身者に対する不当な差別的言動のない社会の実現に寄与するよう努めなければならない」と書かれています。このように、外国人に対する差別は私たち一人ひとりが取り組むべき課題の一つなのです。
現在、新型コロナウイルス感染症の世界的な感染拡大の影響によって、日本にやってくる人たちは減っていますが、日本で生活している外国人たちに対して「外国人」というだけでお店や宿泊施設などの利用を断ったり、差別的な言動を取ったりするという事象が起きています。
例え国籍や人種が違っていても、日本で暮らしているのであれば、私たちの社会を共に支える仲間です。この大きな困難を乗り越えるために、人間同士で争うのではなく、助け合う必要があるのではないでしょうか。

まずは知ることから【4月1日号掲載】

毎年4月27日は「哲学の日」です。紀元前399年のこの日、古代ギリシアの哲学者ソクラテスが時の権力者から死刑宣告を受けて、刑の執行として獄中で毒を飲まされて亡くなったことに由来するとされています。ソクラテスは倫理学(道徳哲学)の祖であるといわれています。倫理学とは「人はどう生きるべきなのか」、「正しい行いとはどういったものか」といった疑問について研究する哲学の分野の一つです。
そんなソクラテスの哲学を表すものに「無知の知(不知の知)」という言葉があります。これは「知らないということを自覚する」という意味で、ソクラテスが当時、知恵者とされていた人たちと対話する中で「知らないことを知っていると思い込んでいる人々よりは、知らないことを知らないと自覚している方が、知恵の上で少しばかり優っている」と気づいた体験から来たものです。
これは、様々な人権問題について考える際も参考とすることができるのではないでしょうか。例えば「性的少数者」という言葉は知っていても、自分の周囲にいないと思い込んでいると、ふとした瞬間に何気ない言動が当事者を傷つけてしまうかもしれません。また、障がいのある人と接する際にも「車いすを使っている人にはこの対応」、「視覚障害のある人にはこの対応」といったように、マニュアル的に接してしまうと適切な配慮ができない場合もあるのです。
このように「解ったつもり」、「マニュアル通り」の対応をするのではなく、「この人が今、本当にしてほしいことは何だろう」と考え対応した方が、より適切な配慮ができるのではないでしょうか。
「哲学」と聞くと難しく聞こえてしまいますが、日頃の人権に対する自分の理解がうわべだけのものになっていないか、見つめ直す機会にしてみるのはいかがでしょうか。

本当の「当たり前」に【5月1日号掲載】

毎年5月3日は憲法記念日です。「国民の祝日に関する法律」には「日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する。」と定められています。普段の生活の中で、「憲法」を意識することはあまりないかもしれません。しかし、憲法と私たちの人権には、深い関わりがあるのです。
日本国憲法の第3章「国民の権利及び義務」の第11条には「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」と定められています。このように、普段から意識していなくても、私たちの人権は憲法によって守られています。
また、第11条の他にも、第13条の「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」や、第14条の「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」、第19条の「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」のように、私たちが生きていく上でとても重要である、個人として尊重されることや、あらゆる差別を受けないこと、思想の自由といったことも憲法に定められています。
「今さらそんなことは言われなくても分かっている」という人も多いかもしれません。確かに、憲法に書かれていることは「当たり前」のことです。しかし、日本国憲法の公布から70年以上が経過した現在でも、性別や国籍、出身地などによって本来受けるはずのない差別に苦しんでいる人たちがいます。
そんな人たちの気持ちに少しでも寄り添って、全ての人が本当の意味で憲法に定められた権利を「当たり前」と言えるようにするために、自分にできることを考えてみる機会にしてはいかがでしょうか。

男女共同参画と意識の変化【6月1日号掲載】

毎年6月23日から29日までの1週間は、「男女共同参画週間」です。これは、2000(平成12)年に内閣府の男女共同参画推進本部によって「男女が、互いにその人権を尊重しつつ喜びも責任も分かち合い、性別にかかわりなく、その個性と能力を十分に発揮することができる男女共同参画社会の形成に向け、男女共同参画社会基本法の目的及び基本理念に関する国民の理解を深める」ことを目的に設けられました。
この週間の成立から20年以上が経過し、女性の社会進出は大幅に増加しています。それに伴い、働く女性についても社会の中で意識が変わってきています。令和2年度の「男女共同参画白書」によると男女別の『「夫は外で働き、妻は家庭を守るべきである」という考え方に関する意識の変化』の調査項目では、2014(平成26)年が「反対」「どちらかといえば反対」の回答を合わせて女性が51.6%、男性が46.5%に対し、2 0 1 9 ( 令和元) 年の結果は女性が63.4%、男性が55.6%となっています。また、『「女性が職業をもつことに対する意識」の変化』の項目では、「子供ができても、ずっと働き続ける方がよい」という回答が2014年では女性が45.8%、男性が43.5%に対し、2019年の結果は女性が63.7%、男性が58%と、男女ともに6割近くになっています。このように、「男は仕事、女は家庭」といった意識に変化が生じてきていることが分かります。
その反面、『「夫は外で働き、妻は家庭を守るべきである」という考え方に関する意識の変化』の2019年の回答で、「賛成」「どちらかといえば賛成」の回答を合わせると、男女ともに3割以上存在することも事実です。
こうした女性の社会進出に肯定的ではない意見を少しずつでも変えていくために、何ができるか一人ひとりが考えることで、「性別にかかわりなく、その個性と能力を十分に発揮することができる男女共同参画社会の形成」に近づくことができるのではないでしょうか。

ご存知ですか?「更生保護」【7月1日号掲載】

7月1日は「更生保護の日」です。1949(昭和24)年のこの日に「犯罪者予防更生法」施行されたことにちなみ、1962(昭和37)年に法務省が制定しました。「更生保護」とは、罪を犯した人や非行のある少年を社会の中で適切に処遇することによって、その再犯を防ぎ、非行をなくし、これらの人たちが自立し、改善更生することを助けることで、社会を保護し、個人と公共の福祉を増進しようとする活動です。
刑を終えて出所した人などが、地域社会の一員として円滑な社会生活を営むためには、本人の強い更生意欲とあわせて、家族、職場、地域社会の理解と協力が必要です。しかし、刑を終えて出所した人やその家族に対する偏見や差別は根強く、社会復帰を目指す人たちにとって、現実は極めて厳しい状況にあります。例えば、就職に際しての服役していたことを理由とした差別、インターネット上での誹謗中傷、保証人になってくれる人がなかなかいないため住居の確保が困難であるといった問題があります。このように、せっかく社会復帰できても「生きづらさ」を抱えたままでは精神的、経済的に追い詰められてしまい、再び罪を犯してしまう可能性があります。
こうした問題を解決していくために、「保護司法」で「社会奉仕の精神をもつて、犯罪をした者及び非行のある少年の改善更生を助けるとともに、犯罪の予防のため世論の啓発に努め、もつて地域社会の浄化をはかり、個人及び公共の福祉に寄与することを、その使命とする」と定められた“保護司”や、犯罪・非行の前歴のために定職に就くことが容易でない刑務所出所者等をその事情を理解した上で雇用し、改善更生に協力する民間の事業主の“協力雇用主”といった人たちが支援に取り組んでいます。
たとえ過去に罪を犯した人であっても、きちんと罪を償って地域社会に戻ってくれば一市民であることに変わりありません。社会復帰を願い努力している人たちのために、周囲が理解を深め、協力していくことが誰もが暮らしやすい地域づくりにつながるのではないでしょうか。

それは誰の「理由」?【8月1日号掲載】

皆さんは、「○○される方にも原因がある」というような意見を見たり聞いたりしたことはありませんか。例えば、「セクハラに遭ったのは、あんな格好をしているからだ」や「いじめを受けやすい性格だ」など「被害に遭う方にも多少の悪いところがある」といった意見です。しかし、本当にそうなのでしょうか。鍵をかけ忘れた家があるからと言って泥棒に入っても良い理由にならないように、例に挙げた意見の「理由」は、加害者側の「動機」であって、被害を受けるべき「根拠」にはなりません。
これは、ハラスメントやいじめに限ったことではありません。出身地など本人にはどうすることもできないことを理由に、就職や結婚で不当な扱いを受ける部落差別や外国人、障がいのある人、高齢者などが日常の中で必要なサポートを受けられない場合など、非がない当事者を批判する身勝手な意見が出ることがあります。また、HIV感染者やハンセン病患者等が病気への無理解から差別的な言動をとられるなどといったことも起きています。そして、最近では新型コロナウイルスの感染者等に対して、ネット上などで感染した日の行動について誹謗中傷するなどの事象も起きています。この他にもあらゆる差別や偏見について同様のことが言えます。
このような意見は、差別の被害を受けた人に対して「被害に遭う方にも悪いところがある」という間違った認識が広まるだけでなく、これを見たり聞いたりして被害を受けた本人さえも「自分が悪かった」と思い込んで周囲に相談したり助けを求めたりできなくなって、苦しめてしまう可能性があるのです。
8月は大分県の「差別をなくす運動月間」です。差別を受けて苦しむ人をなくすために、「差別を受ける理由」ではなく、「差別をなくために何ができるか」を考える機会にしてみてはいかがでしょうか。

スポーツだけではない「オリンピズム」【9月1日号掲載】

7月23日から8月8日まで開催された東京オリンピック。コロナ禍という厳しい状況の中で日本も多くのメダルを獲得し、日本中が大いに盛り上がりました。皆さんはそんなオリンピックのあるべき姿を示した「オリンピズム」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。
国際オリンピック委員会(IOC)によって採択されたオリンピズムの根本原則、規則、付属細則などを記載した“オリンピック憲章”の「オリンピズムの根本原則」では、「オリンピズムは肉体と意志と精神の全ての資質を高め、バランスよく結合させる生き方の哲学である。オリンピズムはスポーツを文化、教育と融合させ、生き方の創造を探求するものである。その生き方は努力する喜び、良い模範であることの教育的価値、社会的な責任、さらに普遍的で根本的な倫理規範の尊重を基盤とする。」と定められています。その他にも、オリンピズムの根本原則の中には「オリンピズムの目的は、人間の尊厳の保持に重きを置く平和な社会の推進を目指すために、人類の調和のとれた発展にスポーツを役立てることである。」や「このオリンピック憲章の定める権利及び自由は、人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治的またはその他の意見、国あるいは社会のルーツ、財産、出自やその他の身分などの理由による、いかなる種類の差別も受けることなく、確実に享受されなければならない。」といったことも定められています。
このように、「オリンピズム」とはスポーツを通して、アスリートに関わらず全ての人が大切にすべき考え方といえるのではないでしょうか。
オリンピックは終了しましたが、9月5日までパラリンピックが開催されています。パラリンピックの選手たちを応援するとともに、4年に1度のこの機会に自分なりの「オリンピズム」について考えてみてはいかがでしょうか。

本当は危ない「無関心」【10月1日号掲載】

皆さんは次のような詩をご存知でしょうか。
“ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は共産主義者ではなかったから 社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった 私は社会民主主義者ではなかったから 彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は労働組合員ではなかったから そして、彼らが私を攻撃したとき、私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった”
この詩はドイツの牧師であり反ナチ運動組織の告白教会の指導者を務めたマルティン・ニーメラーが講演などで語った言葉を元にして生まれたものだと言われています。
この詩の内容は単に「戦争中に外国で起きた過去の出来事」というだけではなく、「いつか誰かの身に起きるかもしれないこと」と捉えることもできるのではないでしょうか。例えば、「共産主義者」「社会民主主義者」「労働組合員」を「障害のある人」や「被災者」等のように様々な人権問題に置き換えて考えてみると分かりやすいかもしれません。今はそうではなくても、突然の事故で後遺症が残ることや、住んでいる地域で大規模な災害が発生するといったことは誰の身にも起こり得るのです。
近年では、SNSなどのインターネット上で様々な属性の人に対する偏見に基づく差別的な発言や誹謗中傷などが行われています。「自分は当事者ではないから」「自分が差別をしているわけではないから」と傍観者になっていると、気付かないうちに加害者側になっていたり自分や家族が攻撃の対象になっていたりする可能性があります。
ニーメラーの「私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった」という悲劇を回避するためには、日頃から一人ひとりが様々な人権問題にアンテナを張っておくことが重要なのではないでしょうか。

差別につながる?「不寛容」 【11月1日号掲載】

11月16日は「世界寛容デー」です。世界寛容デーは1995(平成7)年のこの日、ユネスコ総会で「寛容原則宣言」が採択されたことにちなんで制定されました。
寛容とは「心が寛大で、よく人を受けいれること。過失をとがめだてせず、人を許すこと」等を意味する言葉です。この寛容さが足りないと様々な人権問題につながる可能性があります。
例えば、特定の国の出身者であること又はその子孫であることのみを理由に、日本社会から追い出そうとしたり危害を加えようとしたりするヘイトスピーチや、SNS上などで自分とは異なる価値観や意見の人に対して、人格の否定や誹謗中傷等をしたり、コロナ禍で外出する人やワクチン接種していない人に対して、通院や体質的にワクチン接種できないなどの事情に配慮せずに一方的に過剰に非難したりするといった問題が起きています。
女性、子供、障害のある人、高齢者、外国人、性的少数者、その他にも様々な属性の人たちが共存し、その能力を発揮して活躍できる社会を目指す上で、誰もが寛容さを持つ必要があるのです。
しかし、寛容さを持つと言っても何でも受け入れたり、何でも許したりしなければいけないというわけではありません。無理に自分とは違う意見に合わせる必要はありませんし、明らかな間違いやミスは指摘した方が良い場合もあります。重要なのは、お互いに相手を尊重して「そういう考えの人もいる」と受け止めることではないでしょうか。そうすることで、たとえ意見が食い違っても、攻撃的にならず建設的な議論ができるはずです。また、相手が明らかに間違っている場合であっても、それを指摘する際に言い過ぎて一方的な非難になっていないかについても注意が必要です。
どんな人権問題でも相手の存在を尊重する「寛容さ」を持つことでより深い理解につながっていくのではないでしょうか。

変わらない大切なこと 【12月1日号掲載】

12月20日は「シーラカンスの日」です。1952年(昭和27年)のこの日、アフリカ・マダガスカル島沖でシーラカンスが捕獲され、学術調査が行われたことにちなんで制定されました。シーラカンスは約6,550万年前から現在まで、ほとんどその姿を変えていないことから「生きた化石」とも呼ばれています。しかし、シーラカンスのように長い時間の流れの中で姿を留める生物は多くありません。その多くは環境などに適応するため、姿を変化させてきました。
それは私たち人間の社会も同様で、長い時間の中で少しずつ変化していき、現代では多様な考え方や生き方が認められるようになってきました。
例えば、歴史的な過程の中で形づくられた身分的差別が身分制度の廃止等を経ても、未だなくならず、結婚や就職などの場面で不利な扱いを受けてしまう部落差別です。現在でも、インターネット上で部落差別問題について誤った認識によって、誹謗中傷されたり、動画サイトなどで差別意識を煽るような動画が公開されたりするなどの事象が起きています。
その他にも「男性は仕事、女性は家事や育児、介護を担うべき」などの古い価値観によって女性が社会の中で固定的役割分担を押し付けられてしまう問題や、セクシュアル・マイノリティの人たちが、周囲の理解不足から差別的な言動を受けることや、勇気を出して打ち明けた相手が本人の了承なく他人にそれを伝えてしまう「アウティング」といった問題もあるのです。
このように、古い価値観のままでは、無意識に相手を傷つけてしまうかもしれません。そうならないためには人権意識を時代に合わせてアップデートさせる必要があります。そして、「思いやりの心」といった本当に大切なものだけを次の世代に形を変えず受け継いでいくことが重要なのではないでしょうか。

この記事に関するお問い合わせ先

日田市 市民環境部 人権・部落差別解消推進課 啓発推進係(人権啓発センター)
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