2015年人権コラム「心、豊かに」

更新日:2021年03月31日

『人権コラム 心、豊かに』は、「広報ひた」1日号に掲載(毎月)しています。

「個」からの脱皮【1月1日号掲載】

 ⽇本⼈の⻑所は「親切」「勤勉」「礼儀正しい」―。⽂部科学省所管の統計数理研究所が、⽇本⼈の意識を探るため5年おきに実施している「国⺠性調査(2013 年)」の結果が公表されました。複数の選択回答が可能な10 項目の中から7割を超える選択があった上記の3 つの⻑所の中でも、「親切」は過去最⾼の選択率で2003 年調査と⽐べると30 ポイントの増加となっています。数理研究所は「東⽇本⼤震災の実直な対応を⾒聞きしたことの表れ」と分析しており、困難や苦境を乗り越えるため互いに手を差し伸べあう精神が⽇本⼈の心に深く響いているようです。
 助け合いの精神の実感は他の調査項目でも読み取ることができます。「たいていの⼈は他⼈の役に⽴とうとしているか、それとも自分のことだけに気を配っているか」との問いに対して、1978 年の調査では「他⼈の役に〜」はわずかに19%で、74%が「自分のことだけ〜」と回答し、いわゆる個⼈主義を色濃く映し出したものとなっていました。ところが、この設問は調査のたびに回答の差が縮まり、今回はじめて「他⼈の役に〜」が「自分のことだけ〜」を上回る結果になりました。
 さらに注目すべき結果として、若い世代の「伝統回帰」が挙げられます。職場の⼈間関係について「仕事以外の付き合い」に賛同する若者は7 割近くに上るとともに、「家庭的な雰囲気の会社」を望む声も増えています。職場の⼈間関係にかかわる価値観は、1970 年代の家庭的なものに回帰しており、心のつながりを追求する傾向にあるようです。「個」が重視され、「個」が活躍するだけでは社会は成り⽴たないとする感覚はとても重要です。家族的な空気と伝統を尊ぶ志向の⾼まりは、2015 年を心豊かな⼀年に導くことでしょう。

許すことの「美学」【2月1日号掲載】

 日常生活の中で、ミスや非礼は誰にでも起こりうるものです。ときにはそのミスや非礼が他⼈に迷惑をかけ、また不快な思いをさせてしまうこともあります。
 そのようなときの修復的な役割を果たすのが「謝罪」で、謝罪とは「⾃らの非を認め相⼿に許しを請う」ことをいいます。一般的に、謝罪は口頭あるいは文書などでその意思が表現されます。謝罪の気もちが相⼿に伝わらず、事態や⼈間関係をさらに悪化させてしまうこともあり、謝罪が社会の形成に与える影響は決して小さくありません。
 謝罪は謝る側、謝られる側、または双方の再出発のための⾏為であり、謝罪によって物事(問題)が解決するものではないとされています。「謝ればそれで終わり」ではなく、スキルアップをはかる機会と捉え、謝罪に至った要因の探求や日常の⼼構えを反省し、今後に生かすことが⼤切です。
 謝罪には謝る側の⾃発的な⾏動が求められます。その⾏動に一定の誠意が加わって、謝罪としての体をなすものですが、昨今では謝罪の強要が散⾒され、その様⼦をネットに流すなどの非⼈道的⾏為が問題視されています。これには多くの⼈が強い不快感を⽰しており、批判的な意⾒が⼤半を占めています。
 謝罪には、「今後にむけたチャンスを」という願いも込められています。謝る側の⼈権を尊重し、その願いを受け止める寛容性を養い、「許すこと」によって社会の流れを円滑に導く⾏動が望まれます。
 あちこちで謝罪が繰り返され、そのことが話題になる社会を望む⼈はいないはずです。「ごめんなさい」には「これからもよろしく」と応じられる⼼を追求していくことも美学ではないでしょうか

最大限の「回避」【3月1日号掲載】

 「新1 年⽣の担任教諭、勤務先の⼊学式に出席せず、わが⼦の⼊学式に」。
 昨年春の出来事が物議をかもし、賛否両論が分かれる大論戦に発展しました。肯定派は「先⽣にも人間としての基本的人権がある、ときには家庭を優先してもいい」と擁護。一方の否定派は「職務放棄、教育者としての自覚・責任はないのか」と厳しく批判。両論ともに間違っていないような気もしますが、論戦によっていずれかの意⾒が勝ったとしても、それが解決策になるわけではありません。
 平成19 年に策定された「仕事と⽣活の調和(ワーク・ライフ・バランス)憲章」では、仕事のために私⽣活の多くを犠牲にし、家庭を顧みる時間がなくなることが、社会の活⼒の低下や人⼝減をもたらしていると指摘しています。もしかすると、前出の担任教諭は、わが⼦に⾟い思いばかりをさせていたのかもしれません。「一度だけでも、わが⼦の人⽣の節目を⾒届けたい」という親として当たり前の願望が強く表れた⾏動だったのかもしれません。
 一方で、⼊学式に担任が不在となった⽣徒の気持ちを確かめることも必要です。⽣徒にも担任を擁護する意⾒や残念な感情を表す意⾒などが混在しているのではないでしょうか。いずれにしても、当事者の心情やそのときの状況を脇に置いた第三者の意⾒によって、当時者の「意識」ばかりが責められることは好ましくありません。
 人⽣の各段階における「選択」や「優先」によって、何かが犠牲となることは、あらゆる場面で今後も起こりうるものです。創意工夫が凝らされた事前の対応(話し合いなど)によって、寂しさや⾟さを可能な限り回避していく社会の創造が望まれます。

音声と対等な「手話」【4月1日号掲載】

 手話は「言語」。
 手話は会話や対話、また意思や情報を伝達するための言語として、国連の障害者権利条約に定義されています。
 手話の歴史は、フランスのド・レペー神父が1760 年、パリに設⽴した聾唖(ろうあ)学校で手話による教育を始めたことが最初とされています。日本では、1878 年に設⽴された京都訓聾唖院の院⻑、古河太四郎⽒の熱⼼な取り組みにより手話が確⽴されていきました。
 しかしその後、昭和の始め頃まで続いてきた手話教育は、ある理由から“禁⽌”されてしまいます。当時の欧⽶では、話している⼈の唇を⾒ることによってその言葉を読み取り、その⼝形を真似して本⼈に声を出させる手法の研究がすすめられていました。そして、この手法が日本で「⼝話法」として普及し、「手話では話せるようにならない。手話は⼝話法の妨げになる」とされ、ほとんどの聾学校で手話による教育は姿を消していきました。
 手話が再び認められるようになったのは1990 年代。現在の聾学校では禁⽌という規制はなくなり、手話法・⼝話法のいずれもが各学校の方針に沿って活用されています。また、日常社会では、手話講座や手話通訳者の養成講座などが広く開設され、手話を学び、手話によってコミュニケーションをはかろうとする⼈は着実に増えています。
 手話を⼤切な言語と認めてきたこのような流れは、「手話言語法の制定を求める意⾒書」が地方議会で採択され、手話(教育)のさらなる普及・研究のための環境整備を求める動きにも表れています。手話は聴覚に障がいを抱える⼈の手助けになるだけでなく、⼈が等しく生きるために必要なものであり、音声言語と対等な言語なのです。

「忙しい」は心の一部【5月1日号掲載】

 多くの⽤事に追われて暇がない、せかせかして落ち着かない、そんな状態が「忙しい」であり、忙しいがいっぱい詰まった状態が「多忙」です。「忙しい」は、日常社会のあちこちで使われていますが、時間的な状態より「心の状態」を表す⾔葉として使われることが多いようです。
 例えば、「仕事が忙しく、他のことをする時間がない」といった話を⽿にするときがあります。しかし、「仕事が忙しい」=「他のことをする時間がない」の主張は、全⾯的に認められるでしょうか。すべての⼈がこの理論を押し通してしまえば、家庭はもちろん、地域社会は成り⽴たなくなってしまいます。「仕事が忙しいからできない」は、「仕事が何事にも優先される」といった凝り固まった心の状態が表れているような気がします。
 また、多忙の訴えは⼈間関係や信頼関係を崩してしまうこともあります。自分が必要とされ貴重な存在であることをアピールする自⼰満⾜や自⼰陶酔的な心理、さらには「逃げる」⼝実に捉えられることがあるなど、「忙しい」の主張は対話をストップさせ、前向きな⾏動や社会の発展を封じてしまいがちです。
 「忙しい」が、誤解を与えず綺麗に表現されるのは、相⼿を敬うときなどではないでしょうか。「お忙しいところ申し訳ありません」「多忙な折に来てくださってありがとう」など、相⼿に敬意を⽰し、相⼿との距離を近くする有効な使い方があるはずです。
 本当に多忙な状況に苦しんでいる⼈がいれば、支えの⼿を差し伸べることは当然です。そのうえで、時と場合によって、⼈⽣の優先度を多様にコントロール(選択)できる柔軟な「心」を⾝につけることが⼤切ではないでしょうか。

心まで「虜」にならぬよう【6月1日号掲載】

 「スマホやめますか。それとも大学やめますか―」。信州大学の学⻑さんが、⼊学式で新⼊⽣に投げかけた⾔葉です。
 今では、未成年者の約7 割がスマホ=スマートフォンを愛⽤。その所有率は年々増加傾向にあり、⼩学⽣でも4 割近くが所有しています。そして、未成年者が使⽤するスマホは通話よりも、ゲームやインターネットとしての利⽤が大部分を占めており、いわば「ひとり」で楽しめる便利な道具となっています。
 スマホは、大人にも深く浸透しています。大人が使うスマホは、情報収集や連絡手段として、その多機能ぶりを発揮し、使い方によっては大きな貢献をもたらしています。
 一方で、マスコミや週刊誌などでは、スマホの悪影響も取り上げられています。電子機器であるがための身体への影響、またスマホを⻑時間使う⼩中学⽣の学⼒が低いなどの諸説が報じられています。いずれも、その真偽ははっきりしませんが、やはり「使いすぎ」は要注意です。なかでも、最も懸念されるのが「スマホ依存症」。スマホを⽚時も手放せない状態は深刻な社会問題として専門家も警鐘を鳴らしています。
 信州大学の学⻑さんは、学⽣の将来を憂慮すると同時に、「スマホに触れる時間を⾒直し、本を読み、友人との会話の時間をつくり、⾃分で考える習慣を身に付ける」ことの大切さを強く訴えるため、冒頭の⾔葉を⽤いたようです。
 人と人とのつながりは、発せられる⾔葉や人を思いやる心なくしてあり得ません。魅⼒的な媒体として認められているスマホは、正しく適切に利⽤すれば、何ら問題ないことは確かです。スマホを上手に操り、スマホの魅⼒に心まで奪われることのないように。

歴史が「風化」せぬよう・・・【7月1日号掲載】

 明治期の⽇本⼈の技術⼒が⾼く評価され、「明治⽇本の産業⾰命遺産」が、世界遺産への登録勧告を受けました。
 世界遺産とは、条約に基づいて世界遺産リストに登録された遺跡、景観、自然など⼈類が共有すべき「顕著な普遍的価値」を持つ物件のことで、登録によって、景観や環境の保全が義務付けられます。
 また、平和の希求や⼈種差別の撤廃などを訴えていく上で重要な物件も世界遺産に登録されています。はっきりと定義されているわけではありませんが、これらは別名「負の世界遺産」と呼ばれ、代表的なものとして、原爆ドームやアウシュヴィッツ強制収容所などが挙げられます。
 そんな登録勧告の朗報に国全体が沸く最中、東京東村⼭市では「ハンセン病市⺠学会」の総会・交流集会が開催されました。明治22 年、ハンセン病患者の救済のため⽇本で最初の私⽴の療養所が建てられ、その後の明治40 年の法整備により、公⽴の療養所が全国に設置されました。しかし、ハンセン病について、その病状などまだ理解が乏しい昭和の始めに、国の隔離政策(療養所への強制⼊所など)によって痛ましい「負」の歴史が残されてしまいます。
 強制⼊所させられた患者は、病気が完治しても隔離が続けられるなどの過剰な差別を受けました。そして、戦前の⽇本の統治下にあった韓国や台湾でも療養所が建てられ、同様の差別が患者を苦しめてきました。
 交流集会には韓国と台湾からも関係者が参加し、台湾の参加者から「⽇本、韓国、台湾の療養所の世界遺産登録をめざしては」という意⾒が出されています。歴史遺産を⼤切に保存していくことと同じように、差別を生み出した負の歴史を風化させない取り組みを忘れてはいけません。

完全な「ひとりよがり」【8月1日号掲載】

 2006 年、3 児が巻き込まれた福岡の凄惨な交通事故を教訓に、「飲酒運転の撲滅」を日本中が誓ったはずでした…。
 日本損保協会がまとめた2014 年の飲酒運転による事故件数のワースト1 位は大阪府で236 件。次いで、愛知県、千葉県と続き、いずれも年間200 件以上の事故が報告されています。
 運転人口の多い地域が事故件数も多くなる傾向があるため、運転免許保有者10 万人あたりの飲酒運転事故件数を⾒ると、沖縄県と香川県が平均件数を大きく上回るワースト上位となっています。
 そもそも「運転」という⾏為は、運転者本人だけでなく、同乗者や周囲の歩⾏者の⽣命にかかわる危険を伴うものです。だからこそ「安全を重視し、命を大切にする」という約束のもと、運転免許が与えられるものです。
 しかしながら、取り締まりのみを警戒し、「捕まらなければ大丈夫」といった楽観的かつ自己中心的な運転は、免許制に反する⾏為であるばかりでなく、「人道・道徳に違反する⾏為」という自覚が⾜りていないといえます。
 飲酒は、運動機能や理性心の低下を引き起こし、さらには判断⼒も鈍るなど、運転に不適合な状況をつくりだします。
福岡市では、前出の事故以後も市職員の飲酒運転が発覚し、その都度「宴会自粛」などの措置をとっていますが、果たして効果的な措置といえるでしょうか。飲酒の機会を減らすだけでは、「⽣命を尊重する」倫理観の醸成には⾄らず、懲罰的な措置で終わってしまうような気がします。
 飲酒運転は、被害者とその家族はもちろん、加害者の家族まで巻き込み、一瞬で平穏な日常を破壊してしまいます。
 飲酒運転が重大な犯罪⾏為であると同時に、「人権侵害」であることを肝に銘じなければいけません。

命を貴ぶ「責任」【9月1日号掲載】

 「いじめ」を原因とした悲しい事件が後を絶ちません。そして、その「いじめ」のほとんどが学校現場で起きています。「いじめ」をなくすことは不可能なのでしょうか。
 2013 年、ユニセフなどが⾏った「先進国における⼦どもの幸福度調査」によると、⽇本は「いじめ」の割合などを⽰す「⽇常生活上のリスクの低さ」で1 位。しかし、「実際に学校でいじめられた経験の割合」が、30 カ国中12 位となっていることは、穏やかな風土の中で、じわじわと「いじめ」が繰り返されている現状を⽰しています。
 「いじめ」は⽂部省、都⽴教育研究所、警視庁がそれぞれ「定義」を明確にしています。自殺に追い込んでしまうような事例も定義に沿って判定が⾏われます。1994 年、愛知県で「いじめ」を苦に命を絶った生徒の⽗親は、「定義や判定が重要ではない。⼈を傷つけ疎外する⾏為そのものが問題のはずだ」と語っています。判定にこだわり過ぎる傾向は、「いじめ」を認めたくない胸の内を表しているような気がします。
 学校現場で「いじめ」による事件が起きると、マスコミなどが学校の対応に疑問を投げかけます。「いじめ」の感知や担任の言動に視点が注がれ、加害児童の責任がぼかされてしまう風潮は⻑く変わっていません。さらに、第三者の「いじめられる側にも責任がある」などの、自⼰の⾒解だけによる無責任な発言には、差別を助⻑する⼼理状態が重なって⾒えます。「成⻑過程の⼦どもの多様複雑な⼈間関係や家庭を含む社会環境に起因する」と⽚付けられてしまいがちな「いじめ」。しかし、⼼⾝に⼤きな苦痛を与え、場合によっては命の存亡に影響するような⾏為は、恐喝や暴⾏に匹敵し、⼀生涯にわたり責任を負う愚⾏であることをしっかりと胸に刻ませる導きが必要なのかもしれません。

これまでの「輝き」を無にしない【10月1日号掲載】

 現政権が掲げる成⻑戦略。その中核に位置づけられている「すべての⼥性が輝く社会」の創造をめざし、推進法の制定や講ずべき政策が提示されています。1999 年の「男⼥共同参画社会基本法」の施⾏を⽪切りに、政治的、経済的、社会的及び⽂化的利益を男⼥が平等に享受するため、その環境整備に対する機運が⾼まってきました。ところが、「男⼥格差指数」(国会議員の⼥性⽐率や男⼥の賃⾦格差など、男⼥間の不均衡を示す指標)は、2013 年に過去最低の⽔準(136カ国中105 位)を記録するなど、成果が上がるどころか低落に⻭⽌めが掛かっていません。
 男⼥の賃⾦格差の要因は、⼥性の昇格(登⽤)が進んでいないことなどが挙げられます。さらに、⼥性の6 割近くが非正規労働者で、その内の7 割は年収が200 万円以下となっており、⼥性の経済的な⾃⽴は極めて困難な状況です。
 戦後、⽇本では⼥性が外に出て働かないことが成功の「イメージ」として定着していきます。男性が外で稼ぎ、⼥性は家庭内で家事や育児、介護を任される仕組みが、幸福や安定の源と⾒なされ、「専業主婦」を歓迎する傾向が続いてきました。そして、専業主婦の⽇常の仕事は、「無償」の福祉労働となり、国の福祉予算の抑制に大きな貢献をもたらしてきました。しかしながら、社会情勢の変化に伴い、専業主婦を続けることができない状況が次々と作り出されていきます。景気の悪化や夫の⻑時間労働など、仕事と家庭の調和は崩れ、⼥性は外に出て働かざるを得なくなってしまいます。そして、外で働く⼥性にこれまでのような「貢献」を期待することが、はなはだ無理な環境に…。それが今の⽇本の姿です。
 「すべての⼥性が輝く」ためには、家庭の外で活躍する⼥性だけでなく、光を放ち続けてきた専業主婦の存在を抜きに語ることはできないようです。

心の「クセ」を打破【11月1日号掲載】

 風雪に耐え、折れることなく、しなりによって元の姿に戻る「竹」。
 そんな「竹」のように、折れずに⽴ち直る⼒、「レジリエンス」が注目を集めています。
 レジリエンスが注目され始めたのは1970 年代。きっかけのひとつとなったのが、第2 次世界大戦でホロコースト(大量虐殺)を目の当たりにした孤児の研究です。孤児たちのその後の⼈⽣を調査したところ、不安やトラウマが頭から離れず、⽣きることに苦悩する⼈がいる一方で、逆境や壁を乗り越え、懸命に仕事に取り組み、あたたかい家庭を築く⼈もいました。同じ悲劇を経験した孤児たちの歩んだ⼈⽣に大きな違いが⽣じたのはなぜでしょうか。
 調査後の心理学的な研究から、逆境を乗り越えた⼈には、共通の傾向があることが判明します。それは、困難な状況下でも、後ろ向きの⾯だけでなく、前向きな⾯を⾒出すことができる柔軟な思考を持ち合わせていたことです。
 柔軟な思考は、レジリエンスに欠かせないもので、誰もが手に入れることができるものです。そして、その思考は「⽣まれ持った性格の差」と決めつけられがちですが、「考え方、捉え方のクセの差」に過ぎないことが多く、そのクセに打ち勝つ心が、レジリエンスを育む種となるようです。
 フランスの哲学者・アランは『幸福論』の中で、「悲観主義は気分によるもの、楽観主義は意志によるもの」と説いています。悲しいことや⾟いことは、誰かの手によって好転するものではなく、⾃らの心のコントロールで断ち切っていかなければなりません。簡単に言えば、レジリエンスは「気の持ちよう」。心が折れてしまいそうなときこそ、前を向く「クセ」を⾝に付けることは、差別や偏⾒をなくす強い社会の創造につながっていくはずです。

特別な「感覚」【12月1日号掲載】

 激しい戦闘が続くシリアを逃れた多くの難⺠が欧州に押し寄せ、欧州以外の国も受け⼊れを表明しました。オーストラリアやアメリカは、1 万⼈を超えるシリア難⺠の受け⼊れを発表。⽇本はこの時点で、約970 億円の「財政支援」をアピールしましたが、受け⼊れには「慎重な姿勢」を示しています。
 ⽇本は、以前から難⺠の受け⼊れ(認定)には神経を尖らせていました。複雑な⼿続きにより認定までに多くの時間をかけ、さらに認定の権限を法務省官吏のみに限定。ところが、緊急性や融通性に乏しいこの対応は「⼈道的な配慮に⽋ける」として、国際社会の非難を浴びてしまいます。非難を受けた法務省は2005 年に⼊管難⺠法を改正し、審査制度の改善をはかるなど前向きな姿勢を⾒せるようになりました。
 近年、⽇本への難⺠認定の申請が急増しています。急増の背景には、出稼ぎ目的で来⽇する「偽装難⺠」の存在が取り沙汰されていますが、それでも⽇本における難⺠の認定数は諸外国と⽐べ著しく低くなっています。今回の⽇本のシリア難⺠への対応について、欧⽶メディアは「危機克服のために国際社会と協⼒するとしながら、受け⼊れの準備もしていない」と批判。⼀⽅で、フランスのバルス⾸相は財政支援を⾼く評価。そのうえで、「⽇本は遠い」という地理的な条件を考慮し、受け⼊れ体制にも⼀定の理解を示しています。また、国内では「難⺠」と豊かさを求めて⽇本に来る「移⺠」の違いに対する理解不⾜や治安悪化の懸念から、受け⼊れ慎重論を後押しする意⾒も⾒受けられます。
 「⾦銭的な支援か、それとも⼈道的な支援か」―。国内事情や国⺠感情などの影響を多分に受ける問題かもしれませんが、⽇本(⽇本⼈)には、外国⼈の受け⼊れに「特別な感覚」があるのではないでしょうか。ただ、その感覚が国際社会からはみださなければよいのですが…。

この記事に関するお問い合わせ先

日田市 市民環境部 人権・部落差別解消推進課 啓発推進係(人権啓発センター)
〒877-8601 大分県日田市田島2丁目6番1号(市役所別館1階)
電話番号:0973-22-8017(直通)
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